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Look595、鳩ポッポ。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

五月にもかかわらず真夏日の続くここ京都。
ほぼ全裸に近い状態で部屋に居たので着替えるのに労は要しなかった。
さあ、次はLook595への空気注入だ。
ぺちゃんこになっているタイヤが、ここ最近すっかり魂の抜けきっていた自分のように見えた。
ポンプを押しながら私は自分に言い聞かせた。
「おい戻ってくるんだ、我が魂よ」

さあ出発!
それなりの恰好をしてそれなりにペダルを回していると、やっぱりそれなりにはなるものだ。
頭に血が巡ってくる。
上手くまとまらなかった考えが徐々に収束してくる。
背中に太陽を感じる。
全身で風を感じる。
意外と息は上がらない。
部屋でぐったりしていた自分は一体何だったのかと首を傾げる。

そんな感じで私は自分に酔いしれたまま走っていた。
もうへべれけである。
もちろん飲酒運転ではない。
ちなみにこの時の私の頭の中はちょうどこんな感じだった。
そう、お花畑である。
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そんなこんなで酒を一滴も飲んでいないにもかかわらず、嵐山に到着したとき私は泥酔の一歩手前だった。
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木陰のベンチは既に満席だったので、私は太陽の恵み満載の特等席で一休みした。
目の前を鳩が平和そうに歩いていた。
「こいつらが豪快に頭を振りながら歩くのは頭に血を巡らせるためなのだろうか?
 いやいや、とても頭に血が巡っていそうには見えない」

相変わらず周囲に聞こえるのは中国語と韓国語ばかりである。彼らは声がデカいのである。
「そのうち龍柱とか建つんじゃないだろうな?」
ふとそんな危惧が頭をよぎった。

嵐山で汗の退くのを待って、私は再びLook595に跨った。
「このまま帰宅するのはもったいないので洛西の方にでも寄ってみよう」
自転車道を快調に飛ばす。
すると突然、私の進路に鳩が2,3羽たむろっているのが目に入った。
「こっちが近づけば飛んでいなくなるだろう」
そんな風に思った私は鳩に向かってまっすぐ進んでいった。
「どかないぞ、こいつら」
結局私の方がよけて通る羽目になった。
「一体何なんだ、近頃の鳩は!
 危うく轢き殺すところだった。
 こいつら、もしかして人間相手にチキンゲームでもしているのか。鳩のくせに。
 あまりにも危機意識が無さ過ぎるジャマイカ!!
 折角の気持ちいいサイクリングで鳩相手に事故ったりしてる場合ではないのだ」

とかく観光地の鳩は人間に甘やかされている。
いくら平和の象徴だからといっても平和ボケが過ぎるというものだ。
以前嵐山で、中国人が鳩に餌を撒いて群れが集まったところを脅かして逃げ惑わせるというゲーム?を無限ループでやっていた現場を目撃したことがある。
「たまには必要かもしれない。お互いの為にも」
ちょっとだけそんな事を思った。

そんな鳩ポッポとの一触即発の危機を乗り越え、私は洛西の方に向かってLook595を走らせた。
ロードバイクに乗り始めた頃、自分で勝手に洛西のラルプデュエズと呼んでいた坂は最早ただの起伏の一部としてしか感じなくなっていた。
私は自分の成長を噛みしめ、すでに成長を止めてしまった嵐山の鳩の姿を頭に思い描いた。
「鳩よ、野生を取り戻せ。
 注意一秒怪我一生、いや注意一秒即昇天の方が適切か」
そんな鳩に贈る言葉を考えながら洛西で一休みした。
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この学校ではどうやら書道部が全国大会に出場するようだ。
どのような試合方式で戦うのか知らないが、ぜひ頑張ってほしい。
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その後も順調にペダルを回し、途中調子に乗りすぎて何度かへばりそうになりながらも無事に帰宅。
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シャワーを浴びてアイスコーヒーを飲んだ。
久しぶりに覚える充足感。
あぁ、鳩を轢かなくて良かった。
……続く。

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『月と六ペンス』を読んで。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

サマセット・モームの『月と六ペンス』を読んで感銘を受けたので久しぶりの読書感想文です。
大衆文学作家に分類される事が多いモームですが、ノーベル文学賞に十分値する作家だったと思います。
本書にも至る所に煌めくような人生哲学が散りばめられているのですが、ストーリーの面白さゆえにそれらが霞んでしまうという贅沢なジレンマが見受けられます。

さて、ここから本題。
イギリスの中年紳士ストリックランドは、ある日突然妻子を捨てて画家になるためにパリへ旅立った。
これは語り部である主人公がストリックランドとその周囲の人びとと関わるうちに、彼が何故そうせざるを得なくなったのかを解き明かしていく物語である。
もちろん最初は謎だらけである。
彼は何故絵を描き始めたのか?
ストリックランドには特に絵の才能が有った訳では無い。
それまでの生活に特に問題を抱えていた訳でも無い。
それでも彼はその人生を選択した。

語り部は問う。
「妻子を捨てることにためらいは無かったのか?」
ストリックランドは答える。
「一切無い」
語り部は更に問う。
「それでも何かしら思い出したり気になったりすることくらいはあるだろう?」
ストリックランドは再び答える。
「一切無い」

まるで鬼のようである。
彼は悪魔に魂を売り渡してしまったのだろうか?
ストリックランドはそれから何年も、まるで世捨て人のようにパリでひたすら絵を描き続けた。

語り部は問う。
「なぜ絵を売って生活しようとしないんだ?」
ストリックランドは答える。
「なぜ売らなければならないんだ?」
語り部は更に問う。
「絵を描くからには人からの評価だって欲しいだろう?」
ストリックランドは再び答える。
「なぜ人の評価など気にする必要があるのだ?」

物語の進行と共にますます謎は深まっていった。
ストリックランドは社会と明確な一線を引いて自ら孤独の世界に浸った。
お金が底をつくと日雇いでも何でもして小銭を稼いだが、その収入のほとんどは絵の道具に費やされた。
日々やせ細りみすぼらしくなるものの、それでも絵に対する情熱だけは冷めることがなかった。

ストリックランドはとにかく人格的に問題だらけだった。
窮乏をみかねて朝食を御馳走しようと声をかけた人に対しては「ここから失せろ」の一言。
栄誉不足で死にかけたところを助けてくれた友人とその妻に対しては感謝の一言もなく、それどころかその妻ブランチを籠絡し友人の家を奪って住み込んでしまう。
ストリックランドは女性を惹きつける妖しい魅力を持っていた。
友人の妻ブランチもどちらかというと自発的に彼にすり寄っていった感があるのだ。
ストリックランドとブランチの間にこんな会話が交わされている。
「邪魔になったら放り出すが、それでもいいか?」
「それでもいい」
この数か月後ブランチは服毒自殺するのだが、ストリックランドはやはり一向に気にかけない。
それどころか「あいつは馬鹿な女だった」などと彼女を罵るような事まで言っている。

語り部は問う。
「こんな言葉があります。『何をしても、すべて一般的なルールからはみ出さないように行動しなさい』」
ストリックランドは答える。
「きいたこともないが、くだらん」
語り部は更に問う。
「カントの言葉ですよ」
ストリックランドは再び答える。
「誰の言葉か知らんが、なんにしてもくだらん」

これ以降も相変わらずストリックランドは最低の人格でどん底の生活を続ける。
やがて居をスペインに移し、最終的には南の楽園タヒチへと流れつく。
ストリックランドはタヒチで17歳の少女と結婚するのだが、その時彼が彼女にこう訊いた。
「俺はお前を殴るが、それでもいいか?」
彼にとって女性は衝動処理のための道具でしかなかった。
その後色々あって、最終的にストリックランドはこの地で人生を終える。
ハンセン病を患い視力まで失われていくのだが、死ぬ寸前まで彼は自宅の壁に絵を描き続けていたという。
(余談ではあるが、彼の絵は彼の死後ようやく世間に認められ、人は彼をして天才画家と呼んだ。
 一説によるとストリックランドのモデルは画家のゴーギャンらしい)

一体何なんだこいつは!?
私の素直な感想である。
それはそうとして、当初の疑問「彼は何故突然絵を描き始めたのか?」に対する解は?
残念ながらそのような疑問に対しストリックランドが素直に弁舌をふるう事などあるはずがなかった。
しかしただ一つだけ、語り部がストリックランドの知り合いからヒントめいたことを教えられる。
彼は言う「ストリックランドを捕らえていたのは、美を生み出そうとする情熱です」
私はこの言葉でようやくこの物語に対する自分なりの解釈を見つける事が出来た。

『全ては主観であること』
とは古代ローマ帝国五賢帝の一人”マルクス・アウレリウス”の言葉である。

美こそは、まさに主観そのものである。
ストリックランドは悩んだ「どうすれば事物に対する主観をそのままキャンバスに移すことが出来るのだろう?」。
恐らくストリックランドは自らの主観で新しい美を生み出そうとしていたのだ。
もしそうだとしたら、その為には主観を客観的に捉える別の目が必要になるのではないだろうか?
ただし同じ人間の目ではダメだ。
それでは結局他人の主観を借りているだけに過ぎない。
人間同士で客観的に理解し合うなんてことなどあり得ないのだ。
例えば歴史だってそうだし、物理法則だって長い目でみれば頻繁に書き換わっているじゃないか。
二次元(平面)を理解する為には三次元(上)から、三次元を理解する為には四次元から観なければならない。
つまり人間の内を知る為には人間より高位の次元から見下ろす必要があるのだ。

人間の高位、それは神である。
ならばどうする?
自分が神になるしかないだろう。

それが偶然なのか必然なのかはともかくとして、彼は突然神となった。
そしてその神の目で自らの主観を客観的に捉え、それをキャンバスに写し取っていった。
まさに神がかりである。
神に描けと命令されているのだから納得いただけるものを必死で描くか、無理ですと言って人生から去るか、この二択である。
ストリックランドはもちろん死を恐れることなくそして情熱を絶やすことなく描き続けた。
一度絵を描き上げればすぐ次にとりかかる、過去には何の興味も無い、有るのは永遠に続く今だけだ。
このように考えてみれば彼の人格がなぜ問題だらけだったのかが理解出来る。

神がなぜ妻と子という一個人の心配をする必要があるのだ。
神がなぜ人の評判を気にする必要があるのだ。
神がなぜ死や貧困について思い煩う必要があるのだ。
神がなぜ人に感謝する必要があるのだ。
神がなぜ人間社会のルールに従わなければならないのだ。

そう、彼は神なのだから。
しかし流石のストリックランドでも人間的な情念(例えば性欲など)を全て捨てきるという訳にはいかなかったようだ。
彼はこんな事を呟いている。
「欲望は魂の枷だ。俺は全ての欲望から解き放たれる日が待ち遠しい」
彼にとってそれまで関わった女性は所詮一時的な欲望のはけ口にしか過ぎなかった。
ストリックランドはこうして日々を自分の情欲との闘いに費やし、絵を描き、そして限りなく神へと近づいていった。
それなのに何故か人間の社会においては只頭のおかしい狂人としてしか扱われなかった。
無理もない、神に近づけば近づくほど人間の作った倫理観や道徳観などは失われていくのだから。
人間はそういう人々を差別し遠ざける。
昔からある生存本能の一つだ。
でもタヒチの人びとはストリックランドを快く受け入れた。
まさにタヒチは楽園だったのである。

この物語を読み終えた私は、ここで一つ疑問を抱くことになった。
この小説のタイトル『月と六ペンス』の意味である。
当初読んでいればその内に月とか六ペンスとかの単語が出てくるだろうと思っていたのだが、ついぞその言葉には一度も出会わずに読了してしまった。
色々考えてみたがどうにも分からない。
なので調べてみた。
どうやら月は西洋の世界においては不吉を示す隠語であるらしい。
ちなみに月を示すラテン語「luna」の形容詞である「lunatic」は精神異常者とか狂人とかいう意味である。
そして六ペンスは幸福を呼ぶ六ペンス銀貨として知られている。
つまり『月と六ペンス』とは『不幸(狂気)と幸福(日常)』という意味にも読み替える事が出来る。
結局のところストリックランドは幸福だったのか不幸だったのか?
これについて私はこんなふうに思った。

不幸を暗示する月と幸福を明示する六ペンス銀貨。
月明かりの夜に銀貨を手に取って満月に並べてみる。
どちらも鈍く輝く美しい銀色の円盤であり、そこに幸不幸の違いなどは見いだせない。
ストリックランドの人生もこれと似たようなものだったのではないだろうか?
多分幸福か不幸かなどという些細な二者択一などではなく、もっと本質的な何かなのだ。
ある時ストリックランドがこんな事を言った。
「川に落ちた時どうするか?
 岸を目指して必死に泳ぐか、そのまま溺れて沈むか、どっちかしかない」

人間社会より少しだけ高次の世界に放り出された彼は、見えない岸を目指してただ必死に泳いだだけなのである。
泳ぐ行為に幸も不幸もないだろう。

以上、私の感想です。
この物語は人によって色々な受け取り方が出来る作品だと思います。
私はこのように解釈の幅が広い作品が好きですし、その幅の広さこそが良作の必要条件であると思っています。
……続く。

最後まで読んで頂き、感謝、感激です。
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Look595、4ヵ月半ぶりに乗りたくなった。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

突然乗りたくなった。
どうしても、少しだけでも、何としてでも乗りたくなった。
何故だ!?
分からない。
先月まで桜巡りの為にベルニーニとルイガノ号ばかりを活用していた反動なのか?
それとも桜が散ってしまった今、サイクリングの目的が観光地訪問からただ純粋にロードバイクを楽しむしかなくなったからなのか?
いやもしかすると今開催中のジロ・デ・イタリアの影響か?

今日はたまたま図書館に予約しておいた本を借りに行く用事があった。
私は速やかに全裸になった。
もちろんサイクリングジャージに着替えるためである。

それはLook595で踏み出した瞬間の事だった。
「軽い!
 道の上を滑るように進んでいく。
 それに踏み込んだ時のこのバネ感。
 ただし体力のあるうちにしか堪能できないが……」
これまでベルニーニとルイガノ号で慣らされていた私の体に新鮮な感動が沸き起こってきたのだ。

図書館までの道のりはあっという間だった。
無事本を借り受けた私は、久しぶりに抱く新鮮ながらも懐かしいその感動を胸に、そのままLook595でプチサイクリングへと赴いた。
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小さな坂を超えると汗が噴き出てきた。
それでも私はペダルに加える力を緩めはしない。
何故だかは分からないが、こいつに乗っている時は真面目に走らざるを得なくなるのだ。
むしろ景色を見ながらゆっくり走る方が難しいくらいだ。
右のペダルを踏むとすぐに左のペダルが「さあ踏め」とやってきて、私はそれに素直に従うしかなくなる。
理解したくはないのだが、回し車の中で無意味に走るハムスターの気持ちが何となく理解できてしまう。

そんなハムスター魂?でペダルを回し続け、到着したのは長岡天満宮の八条ヶ池であった。
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暫く池を眺めた後、いつもの場所で写真を撮った。
トップチューブの奥、池の中央付近にはやっぱり奴がいた。
いつもあの場所にいる例の鳥である。
しかし今日は何故か少し端に寄っている。いつもは真ん中に堂々として立っているのに。
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拡大してみた。
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「おい、亀の軍団に占領されているジャマイカ!!
 亀もやっぱりこの季節の太陽は心地いいのだろう。
 それはそうとあの亀達、よく登ってこれたもんだ。
 
 しかしこの池、こんなにたくさん亀がいるとは知らなかった。
 もしかしたら中には亀じゃない何かも混ざっているかもしれない。
 この池で独自の進化を遂げた亀のような何かが」

微動だにしない奴らを暫く観察した後、私はこの亀パラダイスを後にした。
そして再びハムスター魂でペダルを回した。

帰宅。
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「久しぶりのLook595でのサイクリング。
 亀軍団はともかくとして、ロードバイクで走るのはやっぱり気持ちがいい。
 そういえば沖縄の方はもう梅雨の時期だという。
 心地いい季節はすぐに去ってしまうのだ。
 この季節の太陽を大事にしてもっと乗ってやらないと」
亀軍団の集団甲羅干しを想い出しながらふとそんな事を思った。
……続く。

最後まで読んで頂き、感謝、感激です。
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