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ある日のブックオフにて……

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

約二か月前、某ブックオフででのことだ。
私は外国人作家の書棚を、上から下へと一段ずつ眺めていた。
並び順がアイウエオ順だったため、
トルストイやドストエフスキーが中段でその威厳を誇っていた。
最も下段にはマ行以降の作家が並べられていた。
例えばミッチェルの『風と共に去りぬ』、モンゴメリーの『赤毛のアン』シリーズなど。
私は「ふーーん」と思いながらモンゴメリーの隣に目を移した。
そしてこの本に遭遇した。

リリー・フランキー『東京タワー』。
(お前日本人だろっ!)

外国人作家の書棚になぜリリー.フランキーが!?
多分著者名がカタカナだったので店員が間違えたのかもしれない。
でもその店員、”東京タワー”という題名に何か違和感を覚えなかったのだろうか?
更に背表紙には副題としてこう書かれていた。

『オカンとボクと、時々オトン』

いくらなんでもこの副題はつけないだろう、外国人作家が。
日本のそれも完全に関西ローカルじゃないか。

リリー・フランキーはフランキーで他に居場所があるはずだ。
私はリリー.フランキーの専用エリアをその店舗の中に探した。
あった。対面に。
ちゃんと日本人作家の書棚だ。
それもネームプレート付である。
でも残念ながら、というか予想通りそこには『東京タワー』は無かった。

これは完全に店員のミスだろうと思う。
そのミスによって、リリー・フランキー『東京タワー』は完全に誤った居場所を与えられてしまったのだ。

それから約二か月。
ある日、私はあの本がどうしても気になって再び某ブックオフへと足を運んだ。
直ぐに外国人作家の書棚の前へ立って、一番下の列に目をやった。
二か月前と同じミッチェルの『風と共に去りぬ』、モンゴメリーの『赤毛のアン』シリーズがそのまま残っていた。
しかしその隣にはユゴーの『レ・ミゼラブル』となっていた。
あれ『東京タワー』は?と一瞬だけ思ったが、ユゴーの右横に相変わらず鎮座してるのを見つけて何故か虚しさを感じた。

昔、『置かれた場所で咲きなさい』という(読んだことが無いので内容は知らないが)人生訓を説いた本がベストセラーになっていたことがある。
私は『東京タワー』を見て思った。
(いくらなんでもここじゃ咲けないだろう)

この棚を探す人は外国文学に興味がある人なので、リリー・フランキー『東京タワー』を手に取る事は無いだろう。
また、リリー・フランキー『東京タワー』を探す人はこの棚には来ないだろう。
という訳でリリー・フランキー『東京タワー』は購入される確率が恐ろしく低い。
縁の無い人が目の前に立ち、縁のある人は背を向ける、そんな絶望的な居場所にこの本は置かれている。
もし本にとっての存在意義が人に読まれる事だとしたら、この本はそれを全否定されているのだ。

居場所。大事である。

サマセット・モームの『人間の絆』を読んで、私はなぜこの本のタイトルが絆なのか不思議に思って原題を調べたことがある。
原題は『Of Human Bondage』だった。
Bondageとは束縛或いは隷属とかを意味する言葉であり、割と肯定的な意味を持つ絆とはむしろ正反対の印象を与える言葉である。
なのでこの原題を内容に即して正しく邦訳すると、『囚われの身について』の方がしっくりくる。
主人公フィリップは、自分の人生において様々な夢や理想を追い求め続ける。
職業を変え、国を渡り、人と出会い、数々の挫折を経験する。
そんな彼が最終的にたどり着いたのは彼だけの居場所だった。

彼にとって居場所とは?
モームによればこういう事らしい。

「他人に寛容でいられるだけの必要最低限の経済的自立、そして自尊心を得られる場所」

フィリップは自分にとって余りにも高邁な理想や夢、すなわち妄執に囚われ、現実が、そして自分自身が見えなくなっていたのだ。
妄執を棄てるとは諦めることである。
諦めるとは「あきらかにする」ことである。
明らかになれば自分が分かり、必然的に居場所も見えてくる。
こう考えるとこの小説の邦題はこうしてもいいのではないか。
『人間の居場所』。


以前、アニメ『この世界の片隅に』で居場所についてブログを書いた。
この作品もまた人間の居場所について語っている。
ただしこの物語の主人公すずさんは、前述のフィリップとは違って居場所を半ば強制的に与えられた人物である。
でも不思議な事にこの作品における居場所の定義は何らモームと変わることはない。

「他人に寛容でいられるだけの必要最低限の経済的自立、そして自尊心を得られる場所」

ただしすずさんはフィリップに対して随分と必要最低限のレベルが低い。
すなわち、他人に寛容でいるためにあまり経済力と自尊心を必要としないということだ。
これは時代背景も大いに関係しているのだろう。
なにしろ当時はみんな貧乏暇なし、猫の手も借りたいほど忙しい。
世界の片隅で、人々が協力し合わなければ生きていけない時代だった。
誰もが誰かを必要としていたし、人は人から必要にされる事で自尊心を保っていられる。

ますます激しくなる戦火の中、すずさんは嫁ぎ先から実家への帰省(疎開)を促される。
迷った挙句すずさんはそれを断り、嫁ぎ先に残る。
彼女は自分の居場所を知っていた。
あーみえてきちんと世の中と自分との関係を、そしてなにより自分のことを理解していたのだ。

そういう意味において『この世界の片隅に』という作品は、『この世界の片隅にある私の居場所』について語っているような気がした。


『東京タワー』
『人間の絆』
『この世界の片隅に』
これらの作品を鑑みて私は思った。(1つだけ作品性とは全く関係の無い視点だが)

もし人生に目的というものがあるのだとしたら、
それは自分の居場所を見つけることなのかもしれない。
時代に関係なく、自分の居場所を持つ人はそれだけで幸せである。

『東京タワー』にもし意思があったなら今の自分の状態をどう感じただろう。
目の前に本来の居場所が見えるのに、自分は動くこともしゃべることも出来ない。
「おいお前、ちょっと俺をそっちに運んでくれ」
もしかして『東京タワー』は私に一生懸命そう呼びかけていたのかもしれない。
「今度また会うことがあれば善処してやろう」
書きながらそう思った。


最後まで読んで頂き、感謝、感激です。
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