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2017年桜に思う。鬱、或いは鬱状態とは。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

桜の花は下を向いて咲きます。
桜は根の大きさに合わせた枝を張ります。
去年のブログにおいて私は「桜はまるで自分の為に咲いてくれているようだ」などと自分本位な事を勝手にのたまっているのですが、今はその思いはかなり、いや全く異なっています。
何となくですが、桜が見ているのは自らを生かしている土であり、またその土の下に張り巡らせた自分の根っこであるような気がするのです。
桜にとってはその場所こそが自分がやがて朽ちて還る場所(すなわち自らに課せられた天命の行き着く所)であり、根っこの大きさこそが自分の器そのものなのです。(枝ぶりの立派な桜は相応の根を持っている)
つまり分不相応な願いを持って天を仰がず、しっかりと足元だけを見て自分の分際をわきまえた上で生きているのです。
前回の記事からなにかと桜を褒めちぎっている私ですが、桜の生き方にはどこか人の生き方に通じるようなものを多く含んでいるように感じるのです。
昔の人が花見の席で「ここで一句」と詠みたくなったのも何となく理解できるというものです。

桜で一句といえば西行です。
何しろ辞世の句で”最期は満開の桜の下で死にたい”と詠んでいるくらいです。
西行は生涯をかけて自由に旅を続けながら様々な歌を詠んでいますが、桜についての歌が特に多いことでも知られています。
自分の器を知り、相応な志を持ち、天命に従って生きる桜に自分の人生を投影していたのかも知れません。
西行の没後500年、ある人がその足跡をたどる巡礼の旅に出ました。
奥の細道で有名な松尾芭蕉です。
芭蕉も志の人です。
一生を通じて旅をしていました。
志を持つと人は旅をしたくなるのでしょうか?
「Boys be abmitious」(少年よ大志を抱け)というクラーク博士の有名な言葉がありますが、Ambitiousの名詞形Ambitionの語源はラテン語で”歩き回る”という意味です。
まさに旅ですね。
実は「可愛い子には旅をさせろ」という格言と相通じるものがあるのかもしれません。
何しろ器は大人になれば陶器と一緒で固まってしまいます。
入れられる大きさは自ずから決まり、無理をすれば割れるだけです。
器はまだ固まっていない粘土の内にしか大きくできないのです。
大人になって器を変えようと思うと一度今の自分を切り捨てるしかありません。
幸田露伴のいう”自己改革”或いは”自己改変”です。
そう容易く出来ることではないので、普通の人は今の器に見合う志を探すしかありません。
しかし、桜は動けないので宿命づけられた志をだまって受け入れるしかありませんが、人間は考えて動けるので志を探すことが可能です。
”歩き回る”というのはただ物理的に移動することだけではありません。
勉強し、考え、迷い、諦めるのもある意味”歩き回る”ことでしょう。
パスカルは言いました。
「人間は考える葦である」
私なりに要約すると”人間でいたければ考えろ”という事です。

自分の器を知り、それに見合う志を見つけることは人生を生きやすくする処世術の一つです。
それにどんな小さな器だろうが心配する必要はないそうです。
何故なら器が存在する以上、必ずそれに見合う役割(志)があるからだそうです。
お銚子の酒を飲むのには花瓶や平皿ではなくおちょこの方が都合が良いのです。

作家の曾野綾子さんは「この世には平等などというものは存在しない。教育はその事を教えるべきだ」と言っています。
私もその通りだと思います。
福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な教えも、その後に続く「でも実際の世の中はそうではないから学問に励め」という部分がいつの間にか抜け落ちて教えられているような気がします。
理想としての平等論はあってもいいのですが、より必要とされるのは現実とその対処ではないでしょうか。

私の昔のブログに、当時観た映画から「鬱とは、将来をうまく思い描くことが出来なくなる状態の事だ」というセリフを引用した記事があります。
当時の結論としては”でも結局どうしたらいいか分からない”となっていますが、今の私ならこう答えるでしょう。
「自分の器も知らず、志も持っていないのだから未来が見えなくて当然だろう」
逆に言えば、自分の器を知り、志さえ持っていれば、この世から過労死も鬱も随分減るのではないだろうか?などと思います。

「人生とは負け戦のことである」と誰かが言っていました。
最後は死んで終わる事が決まっているからです。
人に志が必要な理由は、死ぬと分かっている戦に参加している以上、そこに何か意味を見つけなければ怖いし虚しいし、とにかくやっていられないからだと思います。
西行も芭蕉もその事を知っていたのではないでしょうか?

話は逸れましたが、とにかく桜は日本人にとって特別です。
切っても切り離せない存在だと言ってもいいくらいです。
色々な人が様々な思いをそこに寄せています。
ところで来年の私は桜について一体どんなことをのたまっているのでしょうか?
もしかすると志のために今の考えそのものを捨てる必要に迫られているかもしれません。
その時、桜は私の目にどう映っているのでしょうか?
という訳で、今回は来年の私が今年の私と比較出来るようにする為だけに書き残した記事でした。
……続く。
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555:管理人のみ閲覧できます by on 2017/04/12 at 17:38:01

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556:Re: タイトルなし by オペラ on 2017/04/12 at 20:54:08

> コメント有難うございます。
人からの期待に応えようと「努力」することは素晴らしい事だと思います。
しかし無理がたたっては折角の人生が台無しになる可能性があります。
孔子が言っていました。
「子曰く、苗にして秀でざる者、有るかな。秀でても実らざる者。有るかな」
(苗から頑張って花まで咲かせたのに実をつける事が出来ないままに終わってしまう人がいる)
これは頑張って生きていた人が、結局周囲の期待に潰されてしまったことを嘆いた言葉です。
恐らく昔からこのような人は数えきれないくらい居たのでしょう。

人から自分の器以上の期待をかけられ、それが重荷だと感じた場合、それは一体どのような重荷でしょう。
1.期待に応えられず、相手に失望される恐怖が重荷になっている。
2.期待に応えられず、相手が不幸になってしまうのではないかという不安が重荷になっている。
1の場合、それは自分が可愛いだけなのでその重荷はすぐに”捨てる”べきです。
2の場合、それは相手に対する愛なのでその重荷に”耐えて”生きていくしかありません。

どちらも理屈としては分かりますが、そう簡単に二者択一できればこれほど楽な事はありません。
人間社会は実に複雑に出来ています。
なのでほとんどの人はその重荷を何とかかんとかごまかしながら生きているのだと思います。
たまに降ろして休んだり、他の人に手伝ってもらったり、これは軽荷だと自己暗示をかけたり。
でも努力して一人で運べるうちはそれがベストだと思います。
無理だと感じたらあれこれ手を抜く方法を考えて、それでも無理なら1.か2.(つまり”すぐに捨てる”か”最後まで耐える”)を選択するしかないと思います。
大統領とか総理大臣でもないかぎり、自分の手抜きや失敗で他人の人生が左右されてしまうような大事業を任されている人はそういないはずです。

ちなみに曾野綾子さんは、誰かに何かを期待されて「はい、頑張ります」と答えたことが無いそうです。
自分の弱さを知っている”強い人”だからこそ出来るのだと思います。
そうじゃない大多数の人は、やっぱりいろいろ”考え”ながらやり繰りしていくしかないのでしょう。
色々な人の意見や偉人の至言などを取り入れ、もちろん自分の経験も踏まえ、それらから自分の器にあった処世の術を構築していくのだと思います。
なんとなくですが、そう思います。(すいません。自分でもまだよく整理できていません)

557:管理人のみ閲覧できます by on 2017/04/12 at 23:04:59

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558:Re: タイトルなし by オペラ on 2017/04/13 at 01:56:34

> こちらこそ有難うございます。

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