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553:管理人のみ閲覧できます by on 2017/04/07 at 21:23:17

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554:Re: タイトルなし by オペラ on 2017/04/07 at 23:58:49

> コメント有難うございます。
何かの本で読んだことがあります。
「愛とは憎しみの変形である。そして愛の鮮度は限りなく低い」みたいな言葉を。
私自身今でもその真意を正しく理解出来ているとは思わないのですが、一応自分なりの解釈はあります。
自分が嫌いな人は自己愛の強い人です。
よく愛の反対は無関心だと言いますが、自分に愛の無い人は自分の事が好きでも嫌いでもなく、要は無関心なのです。

例えば顔が醜く自分がとても嫌いな女性がいるとします。悩んだあげく彼女は整形手術に踏み切りました。
恐らく彼女はその瞬間から自分が大好きになると思います。
自分の本質は何も変わっていないのに憎悪は簡単に愛へと変容するのです。
でも暫くするとまた不満が募ってくるのです。
「もっと綺麗になりたい」
愛の鮮度は低いのです。

釈迦やキリストなどの偉人は別として、愛をごく自然に正しく保てる人が存在します。
(子に対する)母親です。
前回の返信に書きましたが、愛とは
1.忍び(深く包み受け入れる)
2.信じ
3.望み
4.耐える
ことです。
これは同時並行に行うものではなく、どうやら上のような順番があるようです。
母親は我が子の幸せをひたすら信じ、その為にあれやこれや手を尽くして成長を望み、やがてある時点において耐える(すなわち諦める)のです。
我が子がどんなに醜くても馬鹿でも4.で諦めた後に再び1.で受け入れるのです。
「この子は馬鹿でどうしようもないけど根はイイ子なんですよ」などと言う母親がいますが、そのような人は実に愛の鮮度を保つのが上手な人だと思います。実際はその子の馬鹿なところまでが可愛いのでしょう。

4.の実施タイミングは難しいものです。
愛が強ければ強いほど中々諦められるものではありません。
でもいつまでも3.で止まっていると愛は憎しみへと変容します。
もちろん自分自身に対しても同じことだと思います。
自己啓発や勉強などで変われる事も多いと思いますが、自分の限界(器)を知ることも重要だと思います。
恕とはそういう事だと思います。
もし人生に1.から3.だけしか許されていないならば、それはまさに地獄だと思います。
一見4.は最も過酷な言葉のように聞こえますが、実は救いでもあるのです。
(ちなみにここまで偉そうなことを書いていますが私は完全に自分の事をを棚に上げています)

思い付きですが、
例えば自分自身を自分の子供として俯瞰で観てみると正しい自分の愛し方というものが見えてくるかもしれません。
私は男なのでその辺りを想像するのは難しいのですが、そういう意味においては母性本能を有する女性の方が向いているような気がします。
以上、私なりの個人的見解でした。

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京都祇園白川から円山公園を周って花見小路へ。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

今日はあいにく曇天だった。
しかし今の私を止められる者(より正確に言うと止めてくれる者だが)は間違いなく誰もいない。

ある偉い人が言った。
「人生には志が必要である」と。
確かにその通りだと思う。
でもそう簡単に志などを心に抱くことは出来ない。
大多数の人は日々生活に追われ、そのせいかお蔭かは別として、過去も未来も心の片隅に追いやり、志などを意識する暇も無くただ厳しい現実に向き合って生きているのではないだろうか。

でも少し面白いのは「志」という漢字には希望や願望などという極めて利己的な意味だけではなく、相手を思いやる優しさや感謝のような利他的な意味もあるそうだ。
なるほど「人生には志が必要である」という言葉は、目標が無ければ生きる意味を見いだせないが、同時に優しくなければ生きる資格が無いというダブルミーニングだったのか?
もしそうなら何と含蓄に富んだ言葉なのだろう。

「今日は志を持って生きよう」
私は薄曇りの空に向かってそう誓った。

阪急河原町駅を降りると割と派手に桜が咲いていた。

IMG_2944.jpg

辺りを見回すと、皆桜をスマホかカメラのレンズ越しにしか観ていなかった。(メガネはまあ除外しよう)
この光景を見て私は心に誓った。
「今日は桜を自分の眼でじっくりと観て、その光景をしっかりと心に焼き付けよう」

IMG_2945.jpg

そんな小さな志を抱き、私は雑踏の中をかき分け四条大橋を渡り、祇園白川へと足を踏み入れたのだ。
祇園白川はまるで谷崎潤一郎の小説のような世界である。
石畳に沿って流れる小川を挟んで古風な高級料亭が軒を連ねている。
そんな風流の中において、左下の中国人カップルが結婚写真を撮っていた。
何故そうなるのだ?
私の志は少し揺らぎ始めた。

IMG_2907.jpg

気を取り直して。

IMG_2908.jpg

時には自分の目ではなく、カメラのレンズ越しの方が良い場合もあるのだ。
何しろ余計な光景を除外することが出来る。

IMG_2909.jpg

どうやらこの辺りの桜は満開を迎えているようだ。

IMG_2911.jpg

通りをフラフラ歩いていると今度は羽織袴と着物のこれまた中国人カップルが結婚写真を撮っている光景に出会った。
(妙に着物が似合っているし、割と着こなしているじゃないか)
今中国では京都で結婚写真を撮るのが流行っているのだろうか?
その前を何気なく舞妓(或いは芸妓)がはんなりと通った。

IMG_2912.jpg

この辺りは夜間ライトアップされているので、さぞかし綺麗だろう。
そんなことを考えながら私はそれとなく舞妓を追跡した。

IMG_2915.jpg

突如撮影会が始まったのでとりあえず参加した。
やっぱり本物は綺麗だ。
近年益々派手になるレンタル着物姿の外国人には負けないでいてほしい。

IMG_2917.jpg

という訳で祇園白川でした。

IMG_2918.jpg

祇園白川を抜け、そのまま東進するとやがて八坂神社が見えてくる。

IMG_2920.jpg

八坂神社の奥の円山公園では既に酒盛りの宴会が催されていた。

IMG_2922.jpg

これは円山公園のボス的な枝垂桜である。
まだ満開ではなかったが、実に幽玄な雰囲気を湛えている。

IMG_2923.jpg

比べるとこいつはまだまだヒヨッコである。

IMG_2926.jpg

更に奥には中ボス的な枝垂桜もいた。

IMG_2927.jpg

IMG_2928.jpg

IMG_2929.jpg

IMG_2930.jpg

そして別の中ボスも。

IMG_2931.jpg

ここ円山公園は夜桜のライトアップで有名である。
枝垂桜がさぞ美しかろうと想像できる。

IMG_2932.jpg

円山公園を後にして再び河原町の方に向かって歩いた。
そして今”都をどり”に沸く花見小路を南進することにした。

IMG_2937.jpg

横に伸びる小路も実に景観を気にかけて整備されている。
ちなみに奥に見える家族連れは中国人である。

IMG_2939.jpg

そして”都をどり”が上演されている歌舞練場。

IMG_2940.jpg

最近はこのような標識が花見小路に立ったようだ。
(恐らく)「舞妓へのおさわりは厳禁」のマークが何故か悲しい。

IMG_2941.jpg

花見小路を四条通り入り口まで戻ると、ある中国人団体客が点呼の真っ最中だった。
ツアーの添乗員らしき男性がツアー客の名前を大声で呼びあげ、客が手を上げてそれに元気に答えていた。
何故ここで?
ハッキリ言ってかなり邪魔だった。
通行を阻まれたタクシーにクラクションを鳴らされてもお構いなしで軍隊式の点呼はそのまま継続されていた。

IMG_2942.jpg

この光景で面白かったのは、添乗員らしき男性のもっている棒に何故か紫色のテディーベア的なマスコットがつるされていた事だ。
普通は旅行会社の旗などその団体の所属が一目で分かるような目印が付いているものだが、この大門軍団の団長のようなサングラスをかけている人は違っていた。
まあ一般常識とはあまりにもかけ離れていて逆に一発で所属が分かると言えばそうなのだが、これはどうなのだろう?
中国ではアリなのか。
約20人ほどの団体客は真摯な眼差しでテディーベア的な目印を掲げるいかついグラサンの添乗員を見つめていた。
全員至って大真面目である。
しかしそれ故に「残念ながらこの中に一つだけ間違いがあります」という間違い探しのようなユーモアがこの絵にはある。

いいじゃないか。
私はこの光景を見られただけでも曇天のこの日にわざわざ河原町まで出てきたかいがあったと思った。

確か今日の始めに小さな志と称して私はこんな事を言っていた。
「今日は桜を自分の眼でじっくりと観て、その光景をしっかりと心に焼き付けよう」
焼き付いたのはテディーベア旅行団だったのは言うまでも無い。
……続く。

最後まで読んで頂き、感謝、感激です。
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553:管理人のみ閲覧できます by on 2017/04/07 at 21:23:17

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554:Re: タイトルなし by オペラ on 2017/04/07 at 23:58:49

> コメント有難うございます。
何かの本で読んだことがあります。
「愛とは憎しみの変形である。そして愛の鮮度は限りなく低い」みたいな言葉を。
私自身今でもその真意を正しく理解出来ているとは思わないのですが、一応自分なりの解釈はあります。
自分が嫌いな人は自己愛の強い人です。
よく愛の反対は無関心だと言いますが、自分に愛の無い人は自分の事が好きでも嫌いでもなく、要は無関心なのです。

例えば顔が醜く自分がとても嫌いな女性がいるとします。悩んだあげく彼女は整形手術に踏み切りました。
恐らく彼女はその瞬間から自分が大好きになると思います。
自分の本質は何も変わっていないのに憎悪は簡単に愛へと変容するのです。
でも暫くするとまた不満が募ってくるのです。
「もっと綺麗になりたい」
愛の鮮度は低いのです。

釈迦やキリストなどの偉人は別として、愛をごく自然に正しく保てる人が存在します。
(子に対する)母親です。
前回の返信に書きましたが、愛とは
1.忍び(深く包み受け入れる)
2.信じ
3.望み
4.耐える
ことです。
これは同時並行に行うものではなく、どうやら上のような順番があるようです。
母親は我が子の幸せをひたすら信じ、その為にあれやこれや手を尽くして成長を望み、やがてある時点において耐える(すなわち諦める)のです。
我が子がどんなに醜くても馬鹿でも4.で諦めた後に再び1.で受け入れるのです。
「この子は馬鹿でどうしようもないけど根はイイ子なんですよ」などと言う母親がいますが、そのような人は実に愛の鮮度を保つのが上手な人だと思います。実際はその子の馬鹿なところまでが可愛いのでしょう。

4.の実施タイミングは難しいものです。
愛が強ければ強いほど中々諦められるものではありません。
でもいつまでも3.で止まっていると愛は憎しみへと変容します。
もちろん自分自身に対しても同じことだと思います。
自己啓発や勉強などで変われる事も多いと思いますが、自分の限界(器)を知ることも重要だと思います。
恕とはそういう事だと思います。
もし人生に1.から3.だけしか許されていないならば、それはまさに地獄だと思います。
一見4.は最も過酷な言葉のように聞こえますが、実は救いでもあるのです。
(ちなみにここまで偉そうなことを書いていますが私は完全に自分の事をを棚に上げています)

思い付きですが、
例えば自分自身を自分の子供として俯瞰で観てみると正しい自分の愛し方というものが見えてくるかもしれません。
私は男なのでその辺りを想像するのは難しいのですが、そういう意味においては母性本能を有する女性の方が向いているような気がします。
以上、私なりの個人的見解でした。

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