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帰省、頭痛を抱え帰京。

皆さん、どもども。
うつボッチオペラです。


謎のオジサンとの邂逅を乗り切り、翌日にはそれをほぼ忘却のかなたへと追いやって私は実家で呆然とした毎日を過ごしていました。
そして京都へ舞い戻る前日、私は微かに感じる頭痛に悩まされていました。

それは私の中では予想されていた事でした。
精神的ストレスからくるいつもの奴です。

ここのところ全く出てきませんでしたが、その症状は自分の中では消化できず、かと言って外部に発散して消滅させることも出来ないジレンマに襲われたときによく発現していました。

今回の場合は実家で感じる負い目、或いは罪悪感を伴う自責の念にも似たような何とも言えない感情によるものです。




母親はこっちが気後れするほど気を遣ってくれます。
そして何故か褒め称えます。
それに加えて今回は親戚の叔父叔母まで私の寝込みを狙って突然襲来してきました。
もちろん母同様の態度で接してきます。
叔父には呑みに行って色々話をしようとも誘われました。

全てが非常に有り難いのですが私はどうしてもそれに応えることが出来ませんでした。
とにかく身内に色々聞かれるのが嫌だというのと、身内から可哀想な視線で見られたくないという気持ちが交錯して何とも言えない複雑な感情を抱いてしまうのです。
なので、少しでも距離を取ろうとあえて無愛想な態度を取ったりします。

そして更に自己嫌悪が増殖していくのです。

こうなると何とかここから逃げ出したくなる気持ちが強くなりますが、一方でそう出来ない自分もいます。

「やっぱそれは酷いよな、帰省を喜んでくれている身内に対して。
 せめて出来るだけ一緒にいないと」


という訳で、折衷案として採用されるのが
”とりあえずいるのはいるけど接触は必要最低限で”
みたいなものになってしまいます。




翌日、結局私は軽い頭痛のまま京都まで帰り、帰って頭痛薬を飲んだにも関わらずその更に翌日まで鈍痛が続くという状態を経験するはめになりました。

しかし今回はこれまでと違って心に若干の余裕があります。

それは頭痛の原因が明確に特定できているからです。
特定どころか帰省前から予想までしていたので、私にとっては規定事項の一つにしかすぎませんでした。

うつの時には頭痛とか倦怠感とかとにかく体を動かせない方向にバイアスがかかりやすくなるものですが、原因と対処法が明確に準備されていれば割と軽微なまま(精神的に)過ごす事が可能です。
私がうつ生活において(唯一)学んだ処方です。



京都に帰った後、頭痛で動けないのを良い事に私はこの件について色々思案を巡らしてみました。

なぜ私は人と、特に身内と接するのに重荷や苦痛を感じるのか?
(謎のオジサンとは結構気楽に打ち解け会えたのに)

様々な要因があるので一概には言えませんが、主要な要素として、
自分を見る(知る)のが怖い、或いは不快なのではないだろうか?
と思いました。



『他人は自分を映す鏡』
とか
『敵を知り己を知れば100戦危うからず』
とか、自分と他人を引用する格言がいくつかあります。

それぞれ意図するものは異なりますが、根底にある共通する1つの真実として、
自分或いは自分の価値というものは結局他人を通してしか分からないものなのでは?
という考えがあるように思えるのです。

つまり自分のことをよく知る人(例えば身内)ほど、それは忠実に自分を映し出してくれる鏡となります。
また、自分がその人を知れば知るほど、その人(鏡)にかかっている歪みを補正できます。
そのように親密な関係性を有する間柄ならば、恐らく相手をとおして見える自分の姿は限りなく実像に近いものになるでしょう。
(それは自分の想定する自分とはかけ離れている可能性もあります)

身近な人から自分の言われたくない事や認めたくない事などを指摘されるのがつらいのは、恐らくそれがどうしようもなく的を得ていることを心のどこかでは認めざるを得ないからなのでしょう。

自分で目をそらし続けてきた事を、その歪みの鏡は寸分の狂いなく写し出し、突きつけてくるのです。
赤の他人には通じる変な屁理屈や逃げ口上も、その鏡にはかかってしまえば一瞬で正体を露呈させられてしまうのです。


人(特に女性)は自分の顔にニキビや吹き出物が出来たときなど、あまり鏡を直視する気持ちにはなりません。
自分の認めたくない、知りたくない、そんな欠点からは出来るだけ目を背けたくなります。
そして自分の中で設定したちょっと理想寄りに補正された自分を頭の中に抱いているものです。

私の葛藤も実はこれに近いものではないでしょうか?


弱く醜い自分を知りたくない、知らされたくない私は、一点の曇りもなく澄み切った鏡、つまり身内との過度な接触に対して拒否反応を示しているのです。

そういえば過去付き合った女性とも、一度も同棲をしたいとは思ったことがありません。
それどころか、彼女が部屋に泊まろうとするのが負担だったり嫌だったりしました。

当時はただ単に一人が楽だからとか、気を遣いたくないからだと思っていました。
でも最近はこう思います。
自分が相手に見せたい姿と相手から感じる自分に対する印象が異なる場合、それに不安を感じるのです。
そしてその差を埋めていく事に負担を感じるのです。
更にはその差は埋められないどころか益々広がっていく事実に対して修復不能の絶望を感じるのです。



人を見て自分の価値を知るのは社会性動物としての人間の宿命なんだと思います。
でも近年の社会情勢において独りでもある程度生活できるようになったことから、人は自分に対して独りよがりな価値を一方的に設定する傾向が増えました。
自尊心をまもる為にそれは必要なのですが、社会性動物は本来周囲(属する社会)から得られる評価を自分の価値として自尊心を養うべきです。
いったん独りよがりな価値感で自尊心を構築してしまうと、もう本当の姿を受け入れられなくなります。
自分で設定した価値なので、それが多分に嘘を含んでいるという事を気付いているにも関わらず。

安易な方へ、傷つかない方へ、楽な方へ。
こうなると益々自分の殻に閉じこもって社会性動物としては明らかに無理のある生き方なのですが、近年のテクノロジーや社会システムはそれさえも許容してしまうほどの進化?いや変化を見せています。
これから私を含む人類は一体どのような社会を構築していくのでしょうか?



え~~っと、気が付くといろいろ暗い話をしてますね。
とにかく精神的ストレスとそれに伴う頭痛の原因を特定して安心する為にちょっと考えこんでしまいました。
結局結論としては、性格なんてもう直しようが無いんだから後はよく自分の性格を理解してうまく被害を最小限に出来るように対処していくしかない、という事です。

こうされるとこう反応するっていう自分の心の癖を知っていれば、対応策も色々考えられるわけで、もし今回みたいに対応策が無い場合でも、あらかじめ予想できるということで心の負担は大分変わってきます。

そして自分を知るためにもやっぱり人との最低限の接触は必要だな、とも思いました。

海で出会った謎のオジサンも、身内と疎遠になってからは散歩中暇そうな人を見つけては積極的に話しかけているそうです。
赤の他人の曇った鏡とはいえ、そこに自分の客観的な姿を映し出し、社会における自分自身の存在を確認してみたくなるのでしょうか?

私が映し出したオジサンの姿は、オジサンにとってどのように見えていたのでしょうか?



そういえば、あの謎のオジサンに私の女性観で似たような小難しい話をしたときに言われたセリフを今思い出しました。

「自分、考えすぎやねん! ニコッ」

ごもっとも。



……続く。 


最後まで読んで頂き、感謝、感激です。 

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