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暴走おじいさん――再び。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

それは週一の定期診療に出かけようと自宅前の駐車場に向かって歩いている時だった。
「あのぅ、すいません」
突然背後から私を呼び止める声がした。
振り向くと、そこには一人の老人が申し訳なさそうな微笑を湛えて立っていた。
(どっかで見たような気が……)
老人は続けて言った。
「いやぁ、あの時はすいませんでした」
「あっ!」
私はここでようやく気が付いた。
そこに立っていたのは忘れもしない今年の一月、ほぼ自殺テロに近いと言っても良いような攻撃をこの駐車場で私の車に対して実行したあのおじいさんではないか!

*その時の記事ー暴走おじいさん――前編。

私が一目見て分からなかったのは無理もなかった。
おじいさんはまるで某ライザップのCMのように見事にシェイプアップされ、死んだ魚の様だった目には輝きが戻り、何しろ自力で二足歩行をしていたのだから。
車の修理代云々で色々あったあの時以降、私はそれとなくおじいさんの事が気になって何度か彼の部屋まで足を運んだことがあった。
しかし事故当時ほぼフリーアクセスだった玄関の扉は固く閉ざされ、深夜の窓からも光は一切洩れてこず、電力使用を示す金属の円盤はほぼ回転を止めていた。
どうやら部屋にいない事は間違いないなさそうだ。
多分入院したのだろう。
それから約5か月が過ぎようとしていた。
廃車寸前のおじいさんの車はそのまま放置されていたので、その車を目にするたびに私は彼の事を何となく思い出してはいたものの、やがてそれらは日常における当たり前の風景の一つとなっていた。
そんな状態での今回の邂逅である。

「つい最近退院しましてん」
「大丈夫だったんですか?」
それから老人は入院の経緯について話し始めた。
要約すると、両眼を手術し、ついでに心筋梗塞の兆候も見られたのでその治療も行ったとのことだ。
もっと要約すると、当時はほぼ目が見えておらず、おまけに心臓が止まりそうな状態で車を乗り回していたという事だ。
改めて思った。やっぱりテロだ。
おじいさんの声には力があり、表情には余裕がうかがえた。
小粋なジャージに身を包み、タバコ片手に実に堂々と振る舞っていた。
当時の姿からはとても想像できないまっとうな社会人ぶりである。
しかし何はともあれ無事で良かった。
「元気になられて何よりです」私は誠意を込めてそう言った。
「有難うございます。私お宅にお伺いしてちゃんと謝ろうと思ってたんですが、何しろ部屋番号を知らなくて」
私は彼に部屋番号を告げ、それから一つ気になっている事をそれとなく、あくまでごく自然に訊ねてみた。
「そういえば車どうするんですか?」
「あぁこれ!?もう廃車しますわ」
良かった。
病気が治ったんで車も直してこれからガンガン乗り回しますよ、なんて言われたらどうしようかと思った。
私は安堵のあまり多少大げさに彼の考えに賛同した。
「うんうん、それが良いと思いますよ。お金もかかりますしね。私もそうすべきだと思います」
それからホッとしたついでにこんな事も訊いてみた。
「ところでここで何をなさっているのですか?」
おじいさんは威風堂々と答えた。
「散歩ですわ」
(何故この狭い駐車場でタバコ片手に散歩を?
 私以外の人が見たら間違いなく車上荒らしの不審者にしか見えないだろう。
 おじいさん、元気になったのはいいがくれぐれも通報されないように気を付けてください)
私は心の中で彼にそう語りかけた。

おじいさんと挨拶を交わして別れた。
車に乗って再びおじいさんの方に目をやると、一心不乱に駐車場の中をぐるぐる歩き回っている彼の姿が見えた。
駐車場の中とはいえ、歩くことで生の喜びを感じているのだろうか?
どうやら暴走おじいさんは徘徊おじいさんへと変化したようだ。

病院に向けて車を走らせる道中、いつもなら暗く沈むはずの私の心は不思議と暖かかった。
たとえ赤の他人とはいえ、たとえ出会いは不幸だったとはいえ、これもきっと何かの縁。
そんな縁を共有する人が今度は幸せそうな顔で私の前に現れた。
おじいさんは孤独である。
おじいさんは病気を患っている。
おじいさんは経済的に余裕が無い。
ついでにおじいさんは私の車の修理代のローンを背負っている。
でもおじいさんは明るくて幸せそうだった。

ちなみに私はこの日の診療で薬が一つ減った。
もしかして、おじいさんの福にあやかった御利益なのだろうか?
その時思い浮かべたおじいさんの背中に天使の羽が見えたような気がした。
……いやいや、さすがにそれは言い過ぎか。

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日本はなぜ自殺率が高い?

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

前回少し自殺について述べたこともあって、私は今回日本の自殺率の高さの原因について少し考えてみた。
日本の自殺率(10万対比)の高さをG7内で比較すると、例えばよく同じような国民性で比較されるドイツの2倍、イタリアに至っては3倍もの格差がある。
何だ、これは!?
日本は経済大国であり、同時に自殺大国でもあったのだ。
私はここである事が気になった。
「じゃあ日本は昔から自殺大国だったのか?」という事である。
なので日本の自殺率の推移について調べてみた。
すると過去に大きな波(急上昇)が三つ存在することが分かった。

1.1955年(昭和30年)前後・・・高度経済成長の始まり。
2.1985年(昭和60年)前後・・・プラザ合意による円高不況。
3.1998年(平成10年)以降・・・アジア通貨危機による第2次平成不況。

いずれも国民の生活(経済)環境が急激に、そして大きく変化した時期である。
1.はプラスの変化、2.と3.はマイナスの変化だが、どちらにしても人間は急激な変化というものに弱いらしい。
人間の目が明から暗、暗から明への急激な変化によってしばらく前が見えなくなるのと同じで、社会環境の急激な変化、特に価値観の転換によって未来が見えなくなった人が大勢いたのだろう。
興味深いのは3.で、同じ平成不況でも1991年〜1993年までの第1次平成不況期においては自殺率の上昇がみられなかった事である。
では、第1次と第2次の違いは何なのか?
私の見解としてはこうである。
1990年代後半というのは日本がまさにグローバル経済の波に呑み込まれた(或いはその方向に自ら舵を切った)時期であり、日本の労働環境に急激な変化が起こった時期である。
ITバブル、アメリカのヘッジファンド、そしてその影響をもろに受けて発生したアジア通貨危機。
つまり第1次と第2次の違いは、日本がグローバリゼーションに組み込まれる前と後の違いであり、要は社会における価値観の転換なのである。
ちなみに1.と2.の自殺率の急激な上昇が大体数年で戻っているのに対して、3.の場合はそれから10年以上に渡って高止まりの状態を維持した。
やがて2010年から徐々に自殺率は下降傾向に転じる。
第2次安部政権が誕生したからである。
金融緩和や財政出動によって円高デフレが緩和され失業率が低下したのが主な要因だとは思うが、グローバル経済が未だに世界の趨勢である事を鑑みると予断を許さない状況に変わりはない。

急激な社会環境の変化による価値観の転換が自殺率を上げる要因であることは、他の国を見てもよく分かる。
例えば現在も多くの旧ソ連諸国が自殺率が高い傾向を見せているのがその証拠ではないだろうか?
冷戦終結と共に始まった民主化への転換は、まさに価値観の転換である。
リトアニアなどは未だにそこから立ち上がれていない。

では同じように自殺率の高い韓国はどうだろうか?
私が思うに、韓国は日本の1.と3.が同時に実行された国である。
つまりグローバリゼーションによる高度経済成長である。
このダブルパンチによって韓国国民は日本以上に急激な環境変化に晒された。
韓国の自殺率は1990年代後半から恐ろしい2次曲線を描いて上昇することになるのである。
急激な環境変化と価値観の転換が、いかに人に悪影響を及ぼすかが良く分かる。

ローマ帝国以降グローバルな世界観を当たり前のように持っていた欧米諸国に比べ、日本と韓国はまだそのような環境をうまく受け入れられていない。
トランプ政権の誕生、イギリスのEU離脱などによって今後どのような世界になっていくのかは不明だが、
少なくとも政治や経済の目的が人の幸福の為にあるのならば、
富と共に自殺率も上昇していくなどという正の相関関係だけは止めてほしいものだ。

……と、ここまで主に経済による自殺率への影響を述べたが、実は自殺の要因で最も高い比率を示しているのは”健康不安”によるものである。
日本よりずっと経済力が弱く、失業率も高い国の自殺率が割と低かったりするのは、決して経済がその主要因ではないことを示している。
つまり自殺率とは健康問題の海であり、経済問題はその海面を上下する波のような物である。
経済で波を穏やかにする事はできるが、海自体を浅くしようとすれば健康問題を何とかしなければならない。

そこで私は奈良県に目をつけた。
奈良県は毎年自殺率が低く、常に日本最低レベルである。
(ちなみに奈良県の自殺率でもようやくフランスと並ぶ程度でドイツやイタリアには遠く及ばない)
奈良と他の県とでは一体何が異なるのか?
鹿か?大仏か?
いや違う。
色々調べてみると、47都道府県において奈良県は比較的
”アルコール販売量が少ない”
”貯蓄額が多い”
”宗教団体が多い”
という傾向がみられる。

奈良は京都と大阪のベッドタウンとしての役割も担っているので、酒は勤務地で飲むという傾向から”アルコール販売量が少ない”のかもしれない。
また”貯蓄額の多さ”もベッドタウンならではの特徴かもしれない。
なので私は最後の”宗教団体が多い”という傾向に注目した。
奈良についてもう少し調べてみると、奈良県は自殺を思いとどまった人の内、宗教によって救われたという人の割合が他県に比べて高いことが分かった。
奈良県は宗教団体数(10万対比)こそ全国6位だが、宗教団体の教師数(10万対比)では断トツに全国1位である。
奈良は宗教の地だったのである。
奈良で宗教と言えば、まず思い浮かぶのが天理教である。
昔同僚と天理ラーメンを食べに行ったときのことだ。
宗教=怪しい団体としか思っていなかった当時の私としては、その時に見た天理教総本山の建物が醸し出す雰囲気に胡散臭さしか感じなかった事を思い出す。
「あまり近づかないようにしよう」
当時の感想はこんなものだった。
今も天理教が何をしているのか詳しくは知らないが、これらの統計が示す結果に何らかの相関を持っていてもおかしくはない。
近年宗教や哲学は徐々に科学(心理学や物理学、天文学など)に同化してその存在価値を失いつつあるように思えるが、やっぱりその役割においては明確に異なる分野なのだと思う。
特に健康問題のように自分ではどうすることも出来ないことで将来に絶望したとき、宗教や哲学はそこで一旦踏みとどまれる何かを与えてくれるような気がする。

本来意味の無い人生に意味を見出すことが生きる事なのだとすれば、それを科学に求めても救われるとは思えない。
むしろ更に人生に意味を失ってしまうのではないだろうか?
宗教、哲学。
そういえばドイツは有名な哲学者を多く輩出しているし、イタリアにはローマカトリックがある。
ついでに哲学誕生の地ギリシャにおいて言うと、自殺率は日本の6分の1である。

今までさほど考えたことも無かったが、これらの統計に何らかの意味を見出すとするならば、宗教や哲学の役割というものを今一度考え直してみる価値があるのかもしれない。

……続く。

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本田選手のツイッターに対する見解。

皆さん、どもども。
うつを背負って人生ヒルクライム中のオペラです。

本田選手(サッカー)が自身のツイッターで自殺に向かう若者に対してこんな事を呟いた。
『他人のせいにするな!政治のせいにするな!!
 生きてることに感謝し、両親に感謝しないといけない。
 今やってることが嫌ならやめればいいから。
 成功に囚われるな!成長に囚われろ!!』

非常に彼らしいメッセージだが、私はそこに何とも言えない違和感を抱いた。
自殺を考えている時の精神状態というものは、概ね重度のうつ状態にあると言っていいと思う。
私は以前からうつをこう定義している。
「うつとは、将来をうまく思い描くことが出来なくなる状態の事である」
つまりその人にとって自分の未来はただただ真っ暗闇なのである。
ある人がこんな事を言っていた。
「人が自殺するのは今死んだ方が得だと判断するからである」
確かにそうだ。この先どこまで行っても得られるのは苦痛しかないのだから。
ところで人は何故生きるのだろう?
フランクルだったかアドラーだったかそれとも他の誰だったか忘れたが、
「生きることに意味は無い」とか何とか言っていた。
そういえばモームも『人間の絆』で、
「人生には意味など無く、ただ”ペルシャ絨毯”のように人それぞれ自分の模様を織っていけばよい」
みたいなことを書いていたような気がする。
ペルシャ絨毯か……。

しかし意味のない人生ならなおさら、人は何故生きるのだろう?と思う。
そう考えるうちに、生きることは”本能”なのだという結論にたどり着いた。
本能ならば人も動物も変わるところは無い「生まれたから生きる」ただそれだけだ。
本能は未来を考えない。ただ今に対応して生を選択するだけだ。
ペルシャ絨毯で例えるなら今という(意味の無い)一目を織るということだ。
ただし人間には理性というものが備わっていて、それが未来を考え、今生きることへの解釈や意味を要求してくる。
そんな訳で宗教や哲学が生まれた。

話をうつに戻そう。
概ね日本人のうつとは理性の暴走による本能の弱体化だと思う。
本能は常に生きることを求めている。
これを生きる欲求、即ち『生欲』と呼べるのなら、うつ状態とは生欲が著しく減退した状態なのである。
本来理性と本能はお互いに牽制或いは協調して存在すべきものである。
よって極度のストレスによって理性が暴走すると、本能もうまく働かなくなってくる。

不眠。
拒食あるいは過食。
性欲減退。
好奇心の縮退。
幸福感の希薄化。

すなわち生欲の減少である。
こういう時まず考えるべきは暴走した理性を沈静化させ、本能の働きを正常に戻してやる事だと思う。

なので、
・一旦うつの原因から離れ、思考を止めよう。
・(薬に頼ってもいいので)とにかく眠ろう。
・食事をきちんと採ろう。
・出来るだけ日に当ろう。
要は限りなく動物の生活に近づければ良いのである。

ここで意外に重要なのが日に当たることである。
イヌイットという北方モンゴロイドの民族がいる。
主にカナダの北極圏エリアやグリーンランドに住んでいるのだが、この民族の自殺率が異常に高いのだ。
理由として考えられているのが、白人(貨幣)文化への接触による食生活の変化らしい。
(紫外線を吸収しにくい)モンゴロイドである彼らは日照不足によるビタミンDの不足を動物の生肉や内臓を食することで補っていた。しかし食生活は一変し、それによるビタミンD不足は不眠症などの弊害を発症させた。
ついでに酒を覚えた彼らは次々とアルコール依存症となり、抑うつ状態への最短コースを進んでいったのだ。
幸いにも日本には白夜は無く、太陽は年中降り注いでくれる。
精神的にも栄養学的にも外に出て太陽の光を浴びる事は重要なのだ。
このような事に気をつけながら日々を過ごしているうちに、やがて本能は回復し、生欲は再び以前の輝きを取り戻す!ような気がする。
(ただし問題なのは、果たしてそのような環境がそう易々と構築できるのか?特に10代においては?という事である)

さて、ここまで来れたらようやく社会と向き合う準備が出来たことになる。
正常に戻った理性を活用するのだ。
再びこのようなことにならないためにはどうすべきか徐々に考えていくといい。
基準は安眠である。
トーマス・マンは『ブッテンブローク家の人びと』でこう言った。
「我が子よ、昼は仕事に喜びもて励め、されど、夜、安らかに眠れるごとき仕事にのみ励め。」
まさに至言である。
このような小説、或いは宗教、哲学、修身、道徳、処世術、芸術その他諸々、世に転がる理知の結晶を”自分に都合よく”利用して再び自分だけのペルシャ絨毯を織り始めよう。
自殺を考えた時も、長いうつの期間も、それぞれが既に何らかの模様となってその絨毯に織られているはずだ。

生きることに意味は無いかもしれないが価値はある。
何故なら織り上がるものは間違いなく”ペルシャ絨毯”なのだから。

という訳で今回の本田選手のツイッター。
『他人のせいにするな!政治のせいにするな!!
 生きてることに感謝し、両親に感謝しないといけない。
 今やってることが嫌ならやめればいいから。
 成功に囚われるな!成長に囚われろ!!』

これは届ける対象が間違っていた。
「自殺に向かう若者」に対してではなく、
「成功を求めて悩む若者」に対してなら100点だったと思う。
……続く。

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